柳沢の歴史

六角地蔵石幢

ろっかくじぞうせきどう

 保谷町4丁目7番の富士街道と榎ノ木通りの交差する踏切脇の、旧上保谷村西浦に、1795年(寛政7年)に造立された六角柱の地蔵菩薩像で、秋本氏ゆかりの「つや」という女性と、野口氏ゆかりの幼子と思われる「光山童子(こうざんどうじ)」の菩提を弔うために、秋本氏と野口氏が江戸「市谷田町四丁目 石工 角田屋長右エ門」に注文して建立したものです。

 一辺が14cmから17cmのほぼ正六面の塔柱で道標を兼ねており、「西ハ大山道」、「東ハねりま道(練馬道)」、「南ハ志んたい寺道(深大寺道)」と記されています。北への道標は摩滅と傷による損傷が激しく判読が困難ではありますが、現在の榎ノ木通りが横山道に突き当たることから、「北ハ所沢道」、または「北ハ新座道」とあった可能性があります。なお、富士街道を下ってきた、ふじ大山詣での道者や行者などは、この地で南に進路を変え、深大寺・調布へ向かい、押立の渡しで多摩川を超えるルートもあったようです。

 地域の厚い信仰を集めているだけでなく、江戸時代の上保谷村の歴史、地域の交通や生活を伝えているかけがえのない文化財として、市の文化財(市指定文化財 第22号)に指定されました。

  • 六角地蔵石幢© 滝島俊

    六角地蔵石幢

  • 六角地蔵尊上部© 滝島俊

    六角地蔵尊上部