柳沢の歴史

中島飛行機の社員住宅

なかのひこうきのしゃいんじゅうたく

 元海軍機関大尉だった中島知久平(なかじまちくへい)により1917年(大正6年)に開設された「飛行機研究所」は、時の状況と共に巨大な企業となり、東洋一の航空機メーカーとなります。

 1938年(昭和13年)に武蔵野町(現在の武蔵野市)に武蔵野製作所を開設。続いて1941年(昭和16年)にはその隣に多摩製作所を開設すると、数万人規模の従業員を抱える巨大工場となりました。
その従業員向けの住宅や社員寮が保谷、田無地区に数多く建設されました。

 西武柳沢駅周辺では、北口に立野住宅、桶久保住宅。南側には幹部住宅が建設され、居住者が急激に増えていきました。町は活気にあふれていきましたが、終戦近くになると中島飛行機武蔵製作所(武蔵野製作所と多摩製作所が合併して発足)を狙った米軍の空襲により、保谷、田無地区でも大きな被害を受けるようになりました。

  • 昭和20年 柳沢駅周辺の中島住宅© 滝島俊

    昭和20年 柳沢駅周辺の中島住宅

  • 立野住宅内 保谷第二公園(なっとう公園)© 滝島俊

    立野住宅内 保谷第二公園(なっとう公園)